村上春樹


●レキシントンの幽霊(文藝春秋)

七つのお話からなる春樹さんの短編集です。久しぶりの彼の文章はとても心地よくて、全部読み終える1時間ちょっと・・とても楽しませてもらいました。
彼の文章の、言葉のあいだに空気が入っているかのようなやわらかさが好きです。とても重要なことをサラッと書くセンスもいい。
表題になっている『レキシントンの幽霊』では、幽霊というどちらかといえばショッキングな題材をあつかっているものの、さほど大きなストーリー展開もなくてどちらかといえば淡々としたお話。でも主人公のおかれている部屋の様子や風景などの描写がとてもよくて、それらの言葉が私の頭の中で美しい像になって現れます。

だけどいちばんのお薦めは『沈黙』…。サラサラっと書いてありますが、内容はとても深いものがあって、読み終えたあとですぐにもう一度読んだほど。いじめのことが大きなテーマになっているこのお話は、表面だけ取り繕っていて要領がいい、だけど内容も深みもない人のことが痛切に描かれています。

孤独をおそれず、寡黙なのだけど温かい…そんな登場人物たちのことがいつまでも心に残っている、そんな本。


神の子どもたちはみな踊る(新潮社)

阪神大震災に想起された六つの短編が収録されています。
だけど直接震災について書かれてあるというわけではなくて、登場人物たちは自然の大きな力を前に暗喩的になにかに突き動かされ、静かに心の中でなにかが変わっていく・・・そんな様子が描かれています。

「生きていくうえではずせない真実とは・・」みたいな教訓めいたことなどひとつも書いてなくて、どちらかといえばとらえどころがない不思議な春樹ワールドがこの本でも健在。
理屈で分かろうとすると頭が混乱してしまうのは村上春樹のお話の特徴かしら?
読み終えたあとで心の奥に残ったもの、それらを大切にとっておきたい、そう思わせる内容の本でした。

どちらかといえば不器用でちっともかっこよくなんかないのだけど、長い間つきあってはじめて魅力が分かる、そんな登場人物たちがいい。
文中に出てくる「からっぽ」という言葉がとても印象に残っています。


スプートニクの恋人(講談社)

男女のあいだに友情は成り立つのか?
むかしから語られる永遠のテーマですよね。本に登場する一組の男女のあいだに成り立つ濃い友情。女の内側から流れ出す、男に伝えたいたくさんの言葉。だけど、男のほうは相手の女性(すみれ)に肉体的な関係を望みます。ずっとひとりぼっちだったという主人公「ぼく」がすみれに求めたものは人と人(魂)がふれ合うこと。唯一心が分かり合えた女性、すみれを激しく求めます。
孤独が人を惹きつけるのか、それとも人から遠ざけるのか…

孤独をさまよう魂とあちら側の世界。この本にもそんな春樹ワールドが健在。
この本の主人公”ぼく”と『ノルウェーの森』の”僕”をいつしか重ね合わせて読んでいました。この本の中のぼくは、きっと春樹さん自身でもあるのでしょうね。
主人公たちが人を強く愛することによって生じた欲望、それが満たされなかった時の苦しさばかりが強く伝わってきて少し戸惑ってしまったこともたしか。著者が伝えたかったことは、きっともっと「深い」ものがあるのでしょうね。
孤独と喪失。そこから立ち直っていく人の姿読みながら吉本ばななのかつての小説を思い出していました。


●ねじまき鳥クロニクル 第1〜第3部(新潮文庫)

三部あわせて千ページを越える物語の長さももちろんありますが、この三冊を読み終わるまでまるまる1週間もかかってしまいました。
この本を読んだ人から聞いていた「難解」という言葉も読み始めた最初の頃はピンとこなかった私ですが、読み進んでいくうちにあまりにもの複雑な展開、突拍子もないお話の進み方に正直言って何度も本を閉じかけました。
人やそれを取りまく社会の暗部に眠っている闇。そののぶぶんをここまで描ききってしまうと、読みながらため息が出てしまいそう。表面的ではなく人をほんとうの意味で理解しようとすると、この闇のぶぶんを避けて通ることはできないのでしょうか。
現実に実際に起こったことと頭の中、あちら側で起こった出来事が交錯して表れ、不思議な登場人物たちの出現がますますこのお話を複雑にしているようです。

主人公の「僕」が、綿谷ノボル氏について妻のクミコに語った言葉が印象に残っています。暴力と血に宿命的にまみれ、そしてそれは歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐ結びついている、というような主旨の言葉。政治家として世間では高い評価をえているノボル氏ですが、彼を本当に理解するものだけが、彼の心の奥に眠っている暴力と血の匂い、闇の部分をかぎ分けられるようです。

約三年前、地下鉄サリン事件の被害者たちへのインタビューを1冊にまとめた『アンダーグラウンド』の本を読みました。この本のあとがきで春樹氏は人の心に潜む深い闇について述べています。『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる残虐なノモンハン事件とサリン事件、このふたつには”圧倒的な暴力”という共通点があります。
表面の明るい部分だけではなく暗い闇の部分を見ることができる人だけが、人をほんとうの意味で理解することができる・・そんな著者のメッセージをこの本から感じました。だけど本当に不思議なお話。頭で理解しようとするとダメなのかしら。
長文、ごめんなさい。


●そうだ、村上さんに聞いてみよう(朝日新聞社)

村上春樹のホームページ「村上朝日堂」での春樹さんと読者とのメールのやりとりをまとめたものがこの本。
「えっ、こんなこと聞いていいの」
読んでいるこちらがどきまぎしてしまうような質問にも、ユーモアを交えながらサラッと返し、反対にとても深刻な相談には真摯な態度で答えていく、そんな春樹さんに好感がもてます。
もっと軽い読み物を想像していたのですが、じっさいに読んでみると一字一句読み残しがないよう長い時間をかけてじっくり味わっていました。

生きているうちに「これだけは外せない」、そう強く思ったことや、その人だけがもつ真実・・・それらが文章にしてただズラッと並べてあると不思議と読む気がおきないもの。軽い感じの読み物の中に時おり表れるキラリと光るものを見つけていく、そんな読み方のできる本が嬉しい。これは銀色夏生の『つれづれノート』にも言えますよね。
村上春樹の小説を読みながら感じる、心のさまの深いぶぶん。それに対してメールのやりとりで構成されているこの本では、心の表、輪郭のぶぶんが明確になっていく、そんな気持ちよさがあります。
他のエッセイを読んでも感じていましたが、春樹さんの生活の健康的なこと。夜更かしばかりしていて日々快楽に流されている自分が恥ずかしくなってしまいました。
心に湧き出してくる感情をストレートに出してしまわないで、いったん自分の中でねかせておいてから言葉にする・・・ どこか冷静な文章が「大人の男性」という感じでよかったのです。


*うわさの春樹さんのホームページ、・村上朝日堂です。
みなさんからのメールにきちんと返されている、春樹さんの言葉がいい。